正義を貫いた東條英機東京裁判供述書③2017/12/21 09:48

東條英機の供述書は1から156まで有ります。

その全文をそのままここに載せる事は出来ませんので予めご了解ください。

また供述書は要約、引用にさせて頂きます。

皆様には是非原書をお読みになる事をお勧めいたします。


第二次近衛内閣とその当時に於ける内外情勢
(供述書4から6まで)


4.第二次近衛内閣組閣前の約1か月前、私は陸軍の航空総監として満州に出張中であったが、昭和15年7月17日に陸軍大臣から帰京命令を受け18日には陸軍大臣邸に赴き、近衛公に大命が下った事、私が陸軍大臣候補に推薦された事を知った。

そして近衛公は当時は支那事変遂行中である事から、陸軍と海軍との一致、統帥と国務との調整に格別の注意を払っている事を了解した。


5.7月18日夜近衛公から通知が有ったので、19日午後3時杉並荻窪の近衛邸に出頭。

この時の会合には、他に海軍大臣吉田善吾、外相候補の松岡洋介がおり、私を入れて4人であった

この会談の目的は、今後の国政を遂行するに当たり、国防、外交及び内政等にある程度の一致を見るための私的な会談で有った。

この会談では、近衛公から今後の国策は支那事変の完遂に重点を置く事が提唱され、皆同感しこれに努力すべき事を申し合わせた。
(漢字読み仮名、青文字はブログ管理者)

この会合で、海軍も陸軍も入閣の条件は付けなかったが、私は希望として支那事変の解決促進と国防の充実を望んだが、特に国策を決定したという事ではなく、検事側が言う「権威ある外交国策を決定した」と言う事は事実ではない。


7月22日親任式があり陸相に成ったが、陸相として望む態度として概つの方針を定めた、

1.支那事変の解決に全力を注ぐ

2.軍の統帥を一層確立する

3.政治と統帥の緊密化並びに陸海軍の協調を図る事。

であった。


6.私が陸相に成った当時、私が感得した内外の情勢を述べる。

この当時の対外問題は、第一に支那事変で、発生から3年経っているが未だ解決の兆しが無い事。

重慶に対する米英の援助が露骨になっており、これが支那事変解決の重大な癌である事。


第二に第二次欧州大戦が重大な変化を世界に与え、それは東亜に関係ある欧州勢力であるフランス、オランダが戦局より脱落しイギリスの危殆(きたい)(危う)に伴ってアメリカが参戦すると言う気配が濃厚になってきた事。

それにより戦禍が東亜に波及する恐れがあった。従って日本はこれらの事態の発生に対処する必要があった。


第三に米英の日本に対する経済圧迫は日々増大した。

この事が支那事変解決を困難にする共に重要な関心事であった。


対内問題は、

第一に近衛公提唱の政治新体制問題が国内を風靡(ふうび)する様相で、各党各会派は自発的に解消または解消するの形成にあった。


第二に経済と思想について新体制の思想が盛り上がってきた。


第三に米英等の我が国に対する各種の圧迫に伴い、自由主義より国家主義への転換と言う世論が盛んになってきた。


以上が供述書4から6までですが、供述書5から分かる様に、支那事変の解決に手間取っていることが分かります。そしてそれは、米英の蒋介石に対する援助が邪魔をしていることが分かります。

支那事変の始まりは、盧溝橋事件と言われています。日本軍が引き起こしたとされていますが、これは濡れ衣です。興味がある方はお調べください。

この盧溝橋事件を契機に中国側の日本に対する横暴がエスカレートしていきます。

この中国の横暴に日本は引きずり込まれ、どう対処収拾したらよいものか日本政府・軍は悩んでいました。それが”支那事変の解決に全力を注ぐ事”と言うことなのです。


支那事変の発端となった盧溝橋事件を少しだけ話します。

昭和12(1937年)年7月7日の真夜中に、我が陸軍が、盧溝橋近くで演習をしていました。

また我が陸軍の演習地近くには、国民党軍もいました。その国民党軍には、我が陸軍が演習をする旨通告していました。その国民党軍に日本軍が発砲したと言うのです。

しかし演習中の我が陸軍の銃には実包を装填しておらず、弾が無いのに打てるはずもないのです。

銃声を聞いた国民党軍は、日本軍の襲撃と思い日本軍に発砲します。

我が陸軍は、国民党軍の襲撃と思い、急ぎ弾込めをすると言う次第でした。

この盧溝橋事件の犯人は中国共産党です。


その後、中国に駐屯していた日本軍や日本人居留民が中国兵・中国人に襲われる事件が次々と起こるのです。

その中で起きた通州事件などは、中国兵による日本人居留民への残虐な殺人事件です。

これは「南京大虐殺」などと言うフィクションでは無く、実際に有ったことです。

それでも日本側は、事件を穏便に処理しようと、報復など行わず平和裏に事態を収拾しようと努力しました。

しかし国民党軍は、エスカレートし、上海の海軍陸戦隊を攻撃するのです。

この様な背景の下、日本軍は自らを守る為国民党軍と戦わざるを得なくなっていくのです。

これが支那事変、日中戦争に成っていくのです。


日本としては、支那事変をさっさと終わらせたかったのですが、国民党(や共産党)がどんどん戦闘を拡大し日本政府はその収拾に目処が付かなかったのです。


次回に続く


皇紀二千六百七十七年、平成二十九年十二月二一



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